復元

 

蒐集した名物裂などの中から選んだ裂の糸や組成、染料などを研究し、出来るだけ本歌と同じものとなるように復元します

冨田金襴

冨田金襴はもと信長・秀吉に仕えた武人であり、茶人でもあった冨田左近将監知信(?~1599年)が秀吉から拝領して所持、愛好したことからその名が伝えられたといわれる裂です。「和漢錦繍一覧」に、・・・・・・上代四百年計、地色大燈ニ同シ金ニテ一房宛ノ雲但シ大クモ小雲トモニ品 アリスヘテ大燈に同シ、〇或ハ雲に宝ツクノ交タルモアリ同モヤウニテ金地ナリヲ冨金ト云

となっています。名称の起源については異説もありますが現在に時点では先の説をとっておきます。冨田か富田かという事は小文献によりますと『古今名物類聚」「銘物裂名譜」「古錦綺譜」「茶道筌蹄」「茶家醉古襍」「和漢錦繍一覧」「名器録」「古切写」「銘器秘録」「古今名物きれ」が冨田になっています。「雅遊漫録」ではカナ書でトミタとあります。二、三は富田となっているものもありますが冨田と書くのが妥当だと思います。天龍寺慈済院伝来の相国寺三代住持であった空谷明応(仏日常光国師)所用の袈裟(重文・蘇枋地連雲文様金襴袈裟一領)、大名物漢作安国寺肩衝、大名物漢作利休丸壺、大名物雑唐物茜屋柿、中興名物和物古瀬戸大島大海、中興名物和物古瀬戸八重桜大海などの仕覆に用いられています。

 tomitakinnran
白地大燈金襴(徹翁切)
徹翁切は大燈国師の法弟であった大徳寺第一世徹翁義亨(1295~1369年)の袈裟裂であったと伝えられています。「和漢錦繍一覧」に、
・・・・上代四百年計、スミル茶金ニテ大燈ノ通ノ紋処処ニスミニテ字アリ但シ宝ノ字ノヤウナル文字ナリ
と載っています。他の古文献によりますと「古今名物類聚」には大燈金襴の蘇枋色の図が載せられていて、その名称を付したところに「大燈、同白地」と白地のものもある旨が書かれています。また、「古綿綺譜」(写本)には徹翁切となっていますし「名物裂雑聚」(写本)には徹翁切と書かれた肩に朱で「徹翁切」という但し書きがあります。大燈金襴、大鶏頭金襴、龍爪(角龍)金襴などの中に、裏糸大燈、裏糸大鶏頭などと呼ばれるものがあります。「和漢錦繍一覧」の大燈の項に
・・・・・同キレニ裏糸トテ地ノウラ金箔ト同シヤウ織ラスニアルモノ第一ノ上手ナリ
ど載っています。これは金糸を織り込んだ部分に凸凹が出来るのを防ぐために、金糸を織り込む部分の緯糸(横糸)を何本か裏へ遊ばせて表面の締まりを平滑にする工夫をしたもので、微翁切にも裏糸のものがあります。これは良品とされ、時代の降るものにはなくなるようです。この復原のものも裏糸徹翁です。
 sirojidaitoukinnrann
珠光純子
珠光純子は茶祖村田珠光(1423~1502年)の好んだ裂としてその名が伝えられたといわれています。「和漢錦繍一覧」に、
・・・・・時代二百年余、花色地トモ紋コイハナ色紋モヘキカラクサ雨龍アリ、○松屋肩衡ノ袋、○徐?・鷺ノ表具、○ムクノ葉色ノ地ニハイリヤウ各ウスキ純子外ニ類ナシ世上二珠光純子ト云ハ唐革宝ツクシハイ龍ノモンアルヲ云同手、同モヤウハナノトモ紋ヲ後珠光トイフ也
と載っています。大体同じような要旨で「古今名物類聚」「茶家醉古襍」「漢織並二茶入記」「名器録」「茶道筌蹄」「雅遊漫録」「名物裂模本」「名物裂雑聚」「銘物裂名譜」「古綿綺譜」「古今名物きれ」などの古文献の多くに載っています。
文様を仔細に見ると、唐草を画く曲線も、龍の見事な姿態も共に素晴らしく、ゆったりとしていて厳しいものがあります。それに加えて龍頭の角あるいは爪の先端の配慮等、細心にして上品な感覚は茶に用いるに最も適したものと考えられる純子の一つです。大名物漢作松屋肩衝、大名物流作初花肩衝、大名物流作筑紫肩衝、大名物流作不動肩衝、名物流作唐物横山文淋、名物流作玉津島瓢箪、名物漢作二村丸壹、名物流作唐物円座などの茶入の仕覆に用いられています。
 jukoudonnsu
藤種純子
籐種純子については「和漢錦繍一覧」に、
・・・・上代三百年余、ウスハナイロ地紋二重ヒシノウチ二梅ハチ又マン字アリ
と載っています。
また「古今名物類聚」「漢織並二茶入記」「名器録」「茶道筌蹄」「名物裂雑聚」「古綿綺譜」「古今名物きれ」などの古文献にも載っています。ところが文献の中に藤種と藤谷を混同しているものがあります。
両方の名称の載っている文献は先の文献の内「名物裂雑聚」「古錦黄綺譜」「和漢錦繍一覧」ですが「和漢錦繍一覧」では藤谷の項に藤谷純子の説明に続いて藤種純子にまがう説明が載っています。又「雅遊漫録」「銘物裂名譜」では藤谷純子のみ載っていて、その説明が藤種純子のようになっています。この様に藤種純子と藤谷純子が同じ物の様になっている文献や、別のものとして取り扱われているものがありますが、全く別のものど考えるべきでしょう。ただ、今一つ「名器録」に「藤種 公家衆より出る先藤谷のよし」と藤種姓がもと藤谷姓であったという説や語呂が近似している事などが混同を招いたのだと思います。
名物漢作水戸文琳、大名物漢作利休丸壺、名物和物古瀬戸高根肩衝、名物和物慶柿、名物和物真中古橋姫手恐、中興名物真中古大覚寺手泡沫の茶入の仕覆に用いられています。

 hujitanedonnsu
𠮷野間道
𠮷野間道については「和漢錦繍一覧」に、
・・・・上代三百年余、地色コキモヘキコヒ荼ニテ格子四分ハカリ交四分ハカリノサナタノヤウナル嶌アリ間六七分ハカリアリ
ど載っています。また「古今名物類聚」「漢織並二茶入記」「名器録」「茶道筌蹄」「銘器秘録」「名物裂雑聚」「雅遊漫録」「古綿綺譜」「古今名物きれ」と、ほどんどの古文献に載っています。
吉野間道は江戸時代の豪商灰屋紹益(1607~1691年、本阿弥光悦の甥光益の子、佐野紹由の養子どなって灰屋を継ぎ、光悦に師事しが、京都島原の名妓吉野太夫に贈った打掛の裂であったという伝承があり、又紹益が後日、吉野太夫を身請して妻とした話も伝わっています。こうした事などが吉野間道の名の由来どみるべきだと思います。ただ古文献の中の「銘物裂名譜」(写本)に、
・・・・後醍醐天皇御衣ノ切也、地色アイミル茶、赤、萌黄竪横入子有、
筆二及ヒ難シ見事或物ナリどいう記載がありますが、この史実については現在のどころ不明です。𠮷野間道は本歌ど見られるものが数種あります。名物漢作天下一丸壺、名物漢作八重櫻大海、中興名物和物真中古大覚寺手比丘貞の茶入の仕覆にも用いられています。
 yosinokanndou
納戸地花籠立華文風通金襴
この金欄はヨーロッパの、文様であるが、ヨーロッパでおられたものであると一概に言えないところがある。
ヨーロッパの文様のものを明末頃に中国で織られたものであろうというのが落付くところだが、名物裂の調査研究の過程においては大変興味のある裂である。
この裂は吾が家の井上世外翁(馨。元大蔵大臣)旧蔵の「名物裂帖」と彦根藩家老旧蔵と伝承のある「名物裂帖」にそれぞれ小片があり、名物裂帖の白眉、江戸初期に小堀遠州が作った名物裂帖「文龍」の中にも小片がある。又「名物裂帖」(毎日新聞社刊)の「時代古裂鑑」にも小片がある。この裂は「花虫文様風通」(108p416)となっていて、同じ裂の折返しの部分のところの小片が貼られている。小模様が虫に囲まれたようになった部分である。幸いな事に以前入手していた本歌の裂、(仕覆の片身)があったので全体的な構図も分り、複雑な組織も分るので、以前の※『遭原名物裂帛紗箪笥』の復原の
時のように、座繰り糸を用いて太さも撚りも、本歌に合わせ、植物染料で染め、金箔は五毛を用いて、金糸の巾も工夫をこらして復原の作業を進め、手織でようやく織り上げることが出来た。 私の命よりもはるかに永く生き続けてくれるこの裂の美しさを共に味わってほしいと思う。
 huutuukinran
青木間道
青木間道の名称は、もと豊臣秀吉の臣であった青木一矩(アオキカズノリ、~慶長五年・一六〇〇年)の所持に因ると伝えられています。一矩は利休門での高名な茶人です。
青木間道と呼ばれるものには数種あります、それぞれに印象的であり特徴もあるのですか、共通して、青木間道はこうだといえるものはありません、ほんの少しの違いで、他の名称で呼ばれるものもあるので、全体像や細部をよく知っておくことか肝要です、この度復原したのは、細片では古文献「古今名物類聚」の間道の部に近似のものかあり、実物資料では「文龍」(小堀遠州が蒐集した名物裂帖)に青木間道として細片が貼付されています。又当所々蔵の井上世外旧蔵の裂帖・彦根藩家老旧蔵の裂帖にも細片か貼付されています。
幸いなことに、別に本歌の裂を、仕覆の解袋の半身程の大きさ持っていましたので、繰り返しの単位の全てが分かりまし
た。 経縞の構成、横縞の配置・構成、配色、糸の太細・本数全てに亙って調べることが出来ましたので、これを忠実に復原し手織りで織り上げました。
経糸の本数は縞割一返し、二寸六分六厘(八・一?)につき金茶色五四本・白茶色八〇本・緑色九〇本・焦茶色二八本・臙脂色八四本・濃藍三六本の計三七二本を本歌と同じ本数とし、織幅二尺四寸につき三三四八本(耳二四本づつ)として織り上げました。絹糸の太さも本歌は太い細いかありますので太細三種の太さの絹糸を用いました、糸の撚も調べて合せました、植物染料による色合わせは、色数か多かっただけに一色一色か大変でした、【経糸】緑色‐玉葱・藍、臙脂色-蘇芳、薄茶色-茶・榛、濃茶色-茶・榛、焦茶色-ラックダイ・ログウッド、青色-藍、[緯糸]焦茶色-ラックダイ・ログウッド、白茶色-茶・榛を用いて本歌に合せていきました、焦茶の緯糸で織り上げると、表面の色が微妙に変って見えるのです、試織で合してゆきました。 一つ一つの工程で少しの妥協もしないで仕事を進めて行くことか、時間もかかり、厳しい事なのです、予測していた以上に時間がかかりましたが、寸分違わず出来上がりました。
 aokikandou
大蔵錦

名称の由来は能の大蔵流に因む裂かと考えられる。

『名物織物目録』に「昔大蔵切ト言ハ綿錦ニテ色糸ノ入リタルヲ云 近年萌黄地安楽庵ニ蜀江モヤウ有ヲ 大蔵装束ニヨセテ大蔵切トモ遠州切共云」とあり。後説の裂とは異なるようだが、金春金襴・金剛金襴・四座金襴と同様に大蔵流に因む裂と見て良いのではなかろうか。約1センチ角の斜めに埋めた多色の石畳の上文に縦8センチ横6センチ程の夕顔を主題の文様と巻貝に波頭文の文様が交互に織り出されている。

『銘器秘録』『名物織物目録』『古錦綺譜』『和漢錦繍一覧』等の古文献に記載はあるが、数種あるようである。

ここに復原した大蔵錦は、井上世外翁(明治の元老元大蔵大臣井上馨)旧蔵の裂手鑑に貼付の本歌である。時代は明時代と見られる。

文献によると5色としたものもあるが、この錦は経1色、緯糸9色と金糸で細密に織り上げられている。

この本歌の裂の復原をしたいものだと10年ほど以前から考えていたのだが、技術的にも、色数が多いことも重なって、なかなか思い切れなかったが、昨年思い切って取り組むことにした。色あわせには格別の苦心を重ねた。

経糸は21中3本諸の濃茶色の糸、緯糸は21中4本合せの9色の全て植物染料による染糸を用い、金箔糸は本金錆箔1号金90切、総本数は7568本で織上げた

華麗だが落ち着いた感覚に仕上がり、多年の夢の復原をすることが出来た。この名錦に共鳴し、感動して下さる方があると思う。

大蔵錦
葛城裂

葛城裂を選んだのは裂が訴えかける「力」を持っていて、存在感があり、裂に惚れ込んだからです。

明時代(1368~1661)に織成され、舶載された裂と思いますが、日本人好みであったと考えます。日本人は小柄を好んだようです。

中国から舶載された染織品は茶の湯で大切に遺されて、数点ですが茶入れの袋に使用されています。裂帳にも貼付されています。

柄は金箔紙で前後左右亀甲柄の連続模様となっていますが、中に入っている亀甲柄は紺糸となっています。

亀甲柄から華甲を連想し、還暦と繋がったことで、この裂を選んだのは良い記念になりました。

復原に際し参考にした裂は、南三井家(鈴木時代裂研究所蔵)の裂帳に貼付されている直径33ミリ程の円形の裂です。

拡大してみますと紺色が主張してきます。織れ上がると上品で気品のある裂でした。

数百年も前にこの裂の原反を見て、求めた人の気持ちは如何様であったかと思うと楽しくなります。手にした方もそのような気持ちを味わって頂けましたら幸甚です。

「名物裂事典」(鈴木一著)によりますと、名称の由来は葛城太夫愛用の裂と伝承されるが確たる資料はない、河内葛城山中の寺にあったという俗説もある。文献には純子又金襴としているものもある。古文献の古今名物類聚、古裂写、名物裂模本に記載があります。

 K-23 名物裂 葛城裂