蒐集した名物裂などの中から選んだ裂の糸や組成、染料、技法などを研究し、研究成果をもとに新たな作品を創作しています。
竹屋町 掛け軸 | |
竹屋町掛け軸は江戸時代中期ごろ制作されていたと考えますが、指導者の不在で技術が途絶えたのではないかと思います。 竹屋町掛け軸を最初に眼にしましたのは、30年程前に父 鈴木一と古美術店めぐりをして立ち寄った店で、裏打ちをしている竹屋町掛け軸でした。父親も初めて目にするものでしたので、求めることにしましたが、類品がなく珍しい染織品と思っておりました。数年後裏打ちをしていない竹屋町掛け軸を2本入手したことから、復原に挑戦することになりました。紗の生地を手機で制作。染める段階では二人の職人に依頼しましたが、一人が染を完成させました。竹屋町縫いもでき、最後の表具仕立てで完成。思い付きから2年ほどで完成。 東京日本橋壺中居にて平成元年に「竹屋町展」として発表。そのときに100作を目標にしていることを公表、達成するのに14年の歳月が経過しました。 父親は本紙を無地にした竹屋町掛け軸を制作しましたが、それには訳がありました。ここまでしておきますので、後は自分の感性で完成させてください。と一歩身を引いた考えでした。確かに求めた方の眼を見ていますと思索にふけっておられました。 古い竹屋町掛け軸の本紙の図柄は「松に鶴」「鳥」の図柄が多く、伊藤若冲(1716~1800)の図柄に酷似しているので、そのころの好みであったかと考えます。 紗の生地であることで、夏のイメージを持ちますが、図柄を見ていますと夏とは無縁であることを知ることになります。 長く竹屋町は織物であるとされていましたが、父親は若いときからこれは刺繍の技術であるとの持論を展開しておりましたが、理解してもらえず苦慮しておりました。 近年、竹屋町は縫いであると認知されてきましたが、竹屋町掛け軸を発表していなければ今でも竹屋町は織物とされたままでいたかと思います。 山邊知行先生宅で「竹屋町は縫いなんだってね」と「織物だと思っていました」との言葉を聴かされることになり、お会いできて嬉しかったことを思い出します。 竹屋町通りが研究所の1本南の東西の通りで、非常に親近感を持ちます。古文書に古田織部が中国の工人を招き、竹屋町で作らせたとありますが、当初は織部紗と云われていました。今は竹屋町と云われていますが、織部紗から竹屋町への名称移行の原因は織部と一族の自刃によるものであると考えます。 | |
平成創作裂 竹屋町(縫い) | |
四十歳になった頃に、初めて紗の生地にむかい、一針一針生地の目に沿って縫っていくことから始まりました。 「鷹」を七ヶ月かけ完成させた頃に、紗の生地を自分で織ってみないかと北村武資先生(重要無形文化財保持者)に進言されました。半年ほど御自宅にお伺いして織り方を学びました。その後一本の紗の帯を織り上げ、竹屋町の技術で柄を縫い上げてシルク博物館に出品しましたところ、博物館賞を受賞し、作品は館蔵品となりました。 京都の竹屋町通りで作られたので、竹屋町と云われる様になりましたが、当初は織部紗と云われていたと思います。古書に中国の職人を招き、作らせたと記載されています。 竹屋町の基本は紗の生地に、緯糸に沿って縫うことですが、紗の生地を自分で織ることで自由な発想が生まれ、緯糸(横糸)の色を変化させることや金箔紙やプラチナ箔紙や漆箔紙を入れて織ることで過去にない素材が出来るようになりました。さらに緯糸に沿って縫う糸もプラチナ箔紙と漆箔紙を使用することが出来ました。斜めに縫ったり、直角に縫ったりして過去にない技法で表現しています。染織品は平面が基本ですが、立体になるように工夫もしています。 → 創作 竹屋町縫い | |
創作 干支裂 | |
1970年頃染織業界は絶頂期でしたがその後衰退して、手機での制作依頼も減少していきます。少しでも長く継続してもらうには仕事の発注が必要と考え、父・鈴木一は毎年純子を制作する決意をし、草木染で手機を基本として毎年干支の裂を制作していくことにしました。 最初が2004年制作の「甲申純子」でした。 しかし、自分の干支を「己丑純子」として発表した後に没しました。 没後はその意思を継ぎ、毎年 干支に因んだ紋様の裂を発表しています。
途中、やむをえず手織から機械織へと変更いたしましたが、その思いは現在も引き継いでいます。 → 創作 干支 | |
青磁裂象嵌 | |
青磁に染織品を象嵌することは過去の歴史にはなく、もし完成したならば快挙であると思いながら制作に取り掛かりました。 しかし、想像をした制作方法はことごとく拒まれ途方に暮れましたが、なんとしてでも完成しければならないとの想いでやっと思考錯誤のうえ完成することができました。 染織品ならばなんでも貼り付けることができると思いましたが青磁は中国が発祥です。やはり中国で発祥した染織品でないと受け付けてくれません。 日本では「茶の湯」の世界で「名物裂」として大切にしてきた染織品があります。父、鈴木一が1985年に復元した5種類を使用しました。昭和天皇、国立博物館、三千家に献上した染織品です。 2015年 台湾国立故宮博物院に青磁裂象嵌花瓶を納入。 (実用新案登録済) |